2023
個展「流体の捺印」
会期:2023年1月18(水)〜1月29日(日)
会場:KOGANEI ART SPOT シャトー小金井2F(東京都小金井市本町6-5-3 2階)
設営協力:白井祥太郎・辻響己
STATEMENT
数藤三園 solo exhibition
流体の捺印 fluid sign
index. 本の情報を検索する。書かれている内容は?著者情報は?表紙は?この本の中でのキーワードは?読むことでどんな事が期待できるか?価格は?どこで手に入る?言語は?
私はこれらの索引は我々を取り巻く人間関係や生活する場の社会との関係性の中で実際に私たちに課され各々自ら他者へ課している力学だと感じます。それと同時に、生まれ落ちた瞬間から始まる、世界と強制的に関係性を結ばれる、この力の磁場からは逃れる術もなく組み込まれてしまうものでもあります。ミニマリズムの作家が成した、世界(作品)と自己の癒着を切り離そうとした試みはテクノロジーや科学によって人間社会全体が前進するという前提がありました。スイッチを押せば人が動く、といった感覚の格闘ゲームと化した世界において、私が失いたくないものは、それらの検索される”私の”索引情報を改竄、あるいは編集して提示できる権利だと考えます。
もし現代にポール・セザンヌが生きていたら?パウル・クレーが生きていたら。ロバート・スミッソンが生きていたらどのような作品を作るかを想像します。
印象派の画家は当時と同じ絵画を制作することはなく、表現がペインティング、彫刻に限らず多様なメディアが出現した現代においてクレーは何を作り、科学を用いた人類全体の進歩主義が限界を迎えた現代においてスミッソンは何を考え行動するでしょうか。
私たちは遺された作品から何を見ているのでしょうか。筆使い、色の効果、物質とのやり取り、知覚のインターフェースの開発…etc. それらの特徴は時に情報として処理されてしまい、概念化、表象の再利用、鑑賞者が自己投影する鏡として作品が利用される宿命を辿ります。今を生きるアーティストは過去と現代の作家の成した事を吸収し受け止め、何らかの化学反応が作品から表れます。それらの化学反応の正体は言語によって明文化可能なものではなく、作品を作る、或いは物の見方といった各々の姿勢と体勢、判断の作法となってアーティスト自身の肉体と作品に表れます。
私の絵画は、一見して豊かな心地に導かれる絵画、悪様に言えば既に美術史のなかで築き上げられてきた過去の作品の焼き直しの域を出ない絵画の様に見えます。しかしその見飽きた表象は私自身が意図的にその状態に留め、さらに良し悪しの判断を行なった結果としてその場にとどめています。
私は、画面上に表れている一つ一つの様子を私自身を足らしめる要素として検討せず疑いを持って観察します。描かれているモチーフや絵の具の物質性は結果的に私が選択したものではありますがいずれも私自身と密接に関係している、あるいは私自身から放たれた選択と捉えることができません。それよりも画面に表れた制作中の一つ一つの場面の判断や検討の様子に私自身の帰属性を強く感じることができます。
絵画の再現性と既にある画面の関係性を無視しながら絵の具の上に絵の具を重ねる方法論を軸に制作された私の絵画の状態が、私自身の制作行為の結果として、あるいは私が選択した判断の結果としてではなく、過去と現代の特定のアーティスト、または過去と現代に存在していた(いる)かもしれない架空のアーティストが描いた架空の絵画として見えてきます。さらに、絵画から、複数の他者やアーティストのインデックスが表れていると同時に、私という一つの身体性が”代表して”表れている様子からは、絵画の表面に残ったマチエールという形で絵の具によって覆い隠され、積層された過去の判断の知覚を促しつつ、それらのマチエールの関係性を無視し、同時に一方では、実際の制作行為の様に編集された表象を形成する事で、実在、非実在に拘らずどこにも存在し得ない身体性を浮上させています。